<みかんの花咲く丘の知識>
2007/04/26 日記<みかんの花咲く丘>
みかんの花咲く丘
みかんの花咲く丘(みかんのはなさくおか)は、第二次世界大戦|第2次世界大戦の終戦直後に生み出された、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に作られた。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實|海沼実による。1946年8月25]、日本放送協会|NHKのラジオ放送で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった。この曲は静岡側から放送するために作られたもので、最初から川田正子の歌唱を前提にしていた。放送前日の8月24日の昼過ぎに、作曲家の海沼実のもとへ突然の依頼が入った。ちょうどその時、音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が海沼の自宅を訪ねてきたという。海沼は加藤に急な事情を説明し、わずか2〜30分ほどで加藤に歌詞を作らせた。それから海沼は内幸町のGHQで詞の検閲を受け、許可を得るとすぐに伊東市行きの列車に乗り、列車の中で一気に作曲して8月25日の放送に間に合わせた。「1回放送するためだけの歌」という気軽な気持ちで、大急ぎで作られたにもかかわらず、川田正子の歌唱で放送された歌は日本全国に大反響を呼んだ。こうして『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となり、現在にいたるまで歌い継がれてきた。当時、川田の歌声は女性の変声期前の高い声であった。この作詞を手掛けた加藤省吾は静岡県の出身だが、戦時中はかつて両親の住んでいた埼玉県深谷市に疎開していたことがあった。疎開時代の加藤の故郷に対する思いが、この詩を生み出したとも言われている。そしてその縁で、深谷市本住町の富士浅間神社(智形神社)内にはこれを記念し「みかんの花咲く丘の碑」と「加藤省吾顕彰碑」が市民の寄付金により建てられている。ちなみに、この石碑の傍に近付くとセンサーによって感知され、自動的に楽曲がスピーカーから流れ出す仕組みになっている。この曲の題名については以下の秘話がある。加藤が題名を決めようとする際、「静岡」と聞いて彼の脳裏に真っ先に浮かんだタイトルが「みかんの歌」であった。しかし時期的にも「リンゴの唄」(並木路子・霧島昇)が大ヒットしており、二番煎じになりかねないと思ったのか「リンゴが“実”ならみかんは“花”でいこう」と方向転換、「みかんの花咲く丘」に変えたところ、それが功を奏し、今日まで歌い継がれる名曲となった。もし「みかんの歌」のままであったら、この曲は単なる“便乗曲”で終わったかもしれない(ちなみに坂井泉水作詞のZARD「負けないで」にも、この曲と類似したエピソードがある)。なお、この2人によって作られらた童謡として、「すずらんの花咲く丘」という曲もある。
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